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 ドンソン文化(ベトナム)
ドンソン文化

ウィキペディア百科事典によれば「ドンソン文化(英語:Dong Son culture, ベトナム語:Văn hóa Đông Sơn, 漢字:東山文化)は、ベトナム北部の紅河流域を中心に成立した東南アジア初期金属器文化。紀元前4世紀頃から紀元1世紀頃まで続き、タインホア省(清化省)タインホアのマー川右岸にあるドンソン遺跡を指標とする。1920年代にフランス極東学院の考古学者によって発見され、特徴のある銅鼓が有名である。祭器としての青銅器が極めて発達しているが、鉄器も知られていた。銅鼓の起源は紀元前5世紀頃中国雲南で創出されたとされ、中国南部からインドシナ、タイ、インドネシアにも広く分布する。」と書かれている。

 ベトナムのドンソン発掘の銅鼓の絵が、エジプトの葦船(あしぶね)と同じタイプであることや、インドネシアからフィリピンまでの帆船が、地中海スタイルの三角帆であることなど、より古い時代からの人と文化の流れが見てとれる。

<図:天翔ける船の発想「加治木原図」>

 次の頁の2図は<ドンソン文化>の名で知られるインド支那半島出土の銅鼓に書かれた船の絵である。

 これはその羽状の多くの表現から天空を翔ける神とその船を表現したものだとされているが、下図の紀元前1500年頃のエジプトの船と比較して戴くと、この両者が非常によく似ていることに気づかれると思う。

 またその形だけでなくエジプトの船は本来葦船だったものからの発展で一方の端の扇状の飾りは葦を束ねた末端の名残りを止めたものである。

 そして銅鼓の船には明瞭に葦の束を結束した船体が描写されている。

 両者ともに見張台があり帆柱がある。方向舵も同じものだといっていい。

 唯一つ異なるのは一方は帆であるのに一方は羽のようなものになっている点である。

 しかしそれは共に風によって運ばれるものである。

 天上の旅は帆よりも羽の方がより適切であるという発想は,やはり帆を知るもののみが抱きうるアイデアである。

 漕手が居ないことも注意を要する。

<図:銅鼓 漢代(筆者所蔵)>

 カレンのクサビ太鼓は昔の銅鼓が主体で、太鼓はその予備だったという。

 この銅鼓は1924年から、フランス人パジョ氏が、ベトナムのドンソン遺跡を発掘した際に発掘され、古代からの青銅器として学界の注目を集めたが、中国貴州省の苗族や雲南省の彜(い)族は今も全く同型の銅鼓を使い続けている。

 家屋文鏡とつながりのある楽器もまだ生きているのである。

 [銅鐸人]の弥生人は、紀元前のベトナム・ドンソン遺跡から立派な銅鼓が出ているので、そのあたりからの移住者だったことがわかっています。

 中国には今も銅鼓を太鼓のように使っているヤオ(揺)人と呼ばれる少数住民がいますが、日本でも銅鐸の出土する地域には八尾、八百井、矢追、八百板などという地名や姓が残っています。

 これから考えると弥生時代の名の起こりになった東京都の「弥生」町の名も、古代にはヤオ人が住む「弥=ヤ・生=オ」と呼ばれた土地だったものが、時が経つにつれて文字のせいでヤオイと読まれ、ヤヨイと訛ったものだとわかります。

 ※出典:加治木義博「KOFUN:68頁」「日本国誕生の秘密:116頁」「邪馬壹国の言葉:161頁」「日本人のルーツ:133頁」

 Wikipedia:ドンソン文化

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

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(2008/02/09(土) 03:17)

 台湾(高山&平地:アミ族)
 「弥生土器はどう作られたか」

 台湾の山地民族アミ族の人々は、今も手ずくねで自家製の土器を作っている。

 こうして作ったものは乾かしてから、庭先で薪を使って露天焼きする。

 弥生土器を焼いた窯跡は見つかっていないし、その焼き上がりの一致からやはり露天焼きで作られたとみる学者があり、瀬川芳則同志社大学講師はタイ国にも現在、露天焼きが残っていることを報告している。

 双耳壺(そうじこ)は水運び用で、頭にのせて運び、底は丸い。

 その形は韓国の百済甕棺墓出土のものに近く、大阪市<難波宮跡>などから出た土師器の鍋とも、把手(とって)の位置などがよく似ている。

 土師器もまた露天焼き土器とみられる土器である。

 「写真」

 ●双耳壺アトモを作るアミ婦人。

  木製のヘラで整型する。

  手前の花ビンは神前用。

  向かって右端は甑(こしき)。

  台湾嘉義阿里山にて。

 「ギリシャの双耳杯とアトモを作るアミ婦人」

 紀元前5世紀前半の、輪になった提げ手が二つ耳のようについたギリシャの盃。

 この特殊な耳がアミの人々のアトモにも、日本の古墳時代の土師器や須恵器にもつけられている。
 
 アミの人々は地中海系の容貌と風俗を伝えている台湾の山地住民で、『ジンム』でいろいろ紹介しておいた。


 「山地女性文化」

 台湾のアミ族やタイ山地のアカ族は華麗な冠(かぶ)り物で知られるが、男性はみすぼらしい。

 リス族やカレン族も同じで、ジョカジョカジョやスプー、サンといった三味線に合わせて女性が踊る。

「焼酎文化史:台湾高山族の焼酎甑」

 1960年代から1970年代のはじめにかけて、20度ばかり渡台して台湾の山地民族を調査した際、各地で焼酎を造っているのを見聞した。

 アミ族、タイヤル族、ツオウ族のものが一番原始的で、各族それぞれ多少の差はあるが、本質的には図のようなものが基本型をなしている。

 アミ族の老婦人によると昔は土器を使っていたが、彼女の祖父の代に本島人(中国人系の台湾人)が、今の鉄ナベ二個を売りに来てから、ずっとそれを使っているという。

 彼女の所のものは円筒部は丸木を筒状にくり抜いたものだが、他集落には薄板を円く曲げた”曲木(まげき)造り”のものもあった。

 今その型式を比較してみると南九州のものと原理的に一致し、両者の間に必ずつながりがあったとみるほかない。

 そして、台湾のものはより原始的であり集落によっては受け樋も竹を斜めにそいだだけのものまである。

 これはグエバ・アカ族のものより、天井の冷却ナベが進んだだけの、やはりかなり古い状態を保っているものということができる。

 ところが大正四年(1915)に嘉義県の阿里山(アリサン)タパン社で調査した中沢亮治の『台湾生蕃の酒造法』には「この蒸溜器は本島人より教えられたるものと伝ふる所にして、現に鹿(ロク)港の高梁(カオリャン)酒醸造家(本島人)に於て使用しつつある蒸溜器の如き同形のものあり」とある。

 この説によると台湾高山族の焼酎甑は中国伝来のものということになってしまう。

 その中国で始めて焼酒の記事が見られるのは13〜14世紀の元の時代に「南蕃焼酒法」が『居家必要事類全集』に、また忽思慧(タシケイ)の『飲善正要』に「阿刺吉(アラキ)酒」がやはり南方の酒として記され、一見どうどうめぐりのようにみえる。

 だが、この元代の蒸溜器は、台湾のそれとは全然型式の異ったもので、これが台湾に伝えられたものとは、とうてい考えることはできない。

 また元のものは阿刺吉酒と明記されているから、蒙古人が今も飲む馬乳酒から造るアリカやエラーガ。アラブ系の人々のアラック。トルコ人のラキ。インドネシア諸島のアラッ等々。

 本来はアラブ語の”汗”を意味するaraqa(アラカ)から分れて方言化した名をもった蒸溜酒の一派であることがわかる。

 これもまた西から遅れてやって来たものの一つで、焼酎とは同じ祖先をもってはいるものの、焼酎のルーツには入らない酒でしかない。

 結局、元のものもまた泡盛と同じく、本当の焼酎がやってきた道に、後世になってから割りこんできた別系統の蒸溜酒であり、むしろ蘭引系のものといった方がいい。

 このように蒸溜酒の伝播経路はかなり複雑に交錯し入り組んでいる。

 このため焼酎の正しい歴史は迷路に迷いこんでしまって、結論が出にくい状態にあったのである。

 日本の古代には口噛みの酒しかなかったという先入観もまた真相を明らかにする邪魔をしていた。

 けれども、それではどうにも説明のつかないものが日本の焼酎生産地の分布である。

≪写真≫

 タパン社のツオウ族の皆さん


 「台湾、ギリシャ人+日本人?と天上聖母」

 台湾は『後漢書』や『太平御覧』が注記に引いている3世紀の呉人・沈瑩(チンエイ)の『臨海水土誌』が書かれた当時から17世紀の明未まで「流求=琉球」と呼ばれていた。

 しかし後半は「小流求」になり、沖縄が同時に「大流求」と呼ばれたから、沖縄の支配下にあったことがわかる。

 『明史稿』の「鶏龍伝(キールン)」=基隆(キールン)は、平地アミ族の記録だが、勇を尊び奔馬のようにマラソンして一日百里を走る。

 男女とも髪を丁髷(ちょんまげ)に結い男は裸体で戦闘を好み、勝者も死者も共に讃える……」などと古代ギリシャ人+日本人に似た風俗を伝えている。

 図の媽祖(マソ)像は中国本土からの移民がもって来た信仰で天上聖母とも呼ぶ鹿耳門(ルクイーモーン)天后宮のもの。

 この他にも「観音仏祖」と呼ぶ観世音がある。

 「図」媽祖(マソ)像


 ※出典:加治木義博・言語復原史学会
     「日本人のルーツ:28頁」
     「焼酎入門:78・132・133頁」
     「大学講義録22:12頁」
     
参考: アミ族
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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(2008/02/06(水) 00:00)

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