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| なぜ読むか |
出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書 終章・ペンを携帯した王 ・シュメル文化の継承 :280・281頁
「アッシリア学」は専門的分野に分かれて研究がおこなわれ、
国際的な評価を受けている日本人研究者もふえている。
だが、日本人研究者の裾野が広がっているとはいいがたい。
欧米の研究者は「アッシリア学」を専門とすることに違和感はないようだ。
彼らの多くが信じている『旧約聖書』から入って行ける。
たとえば、「バべルの塔」からジグラトへ、
「ノアの大洪水」から
シュメル語版『大洪水伝説』へとさかのぼって行くことで、
自らが拠って立つユダヤ教、キリスト教文化の背景をたどることができる。
一方で、
シュメルの歴史や文化は
日本の歴史や文化と直接かかわりがあるわけではない。
日本人がシュメル語の楔形文字を読む必要があるのだろうか。
前川和也先生がシュメル語をなぜ読むのか考えられたことがあり、
結局、シュメル語を読むことは
「シュメル人に経を上げることになる」と
思うという主旨のことを話されたことがあった。
心に残っている。
人間は自分のことを知ってほしいと思うものである。
すべての人々にわかってもらうことはできなくても、
少なくとも自分に好意的である人には等身大の自分を
理解してほしいと思うものである。
シュメル人は粘土板に懸命に記録を残した。
なかには明らかに後世の人間に読んでもらうことを
願って書いたと思えるものもある。
その心を受け止めたい。
シュメル研究を志したことが縁(えん)であるならば、
その縁を一生大切にしたい。
シュメル人がなにをしたか、
なにを考えていたかを知ること、
そして次世代へ伝えることは後世の人間の務めではないだろうか。
読んでやらなくては、
シュメル人は往生できないのではなかろうか。
小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
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(2008/04/02(水) 02:32) |
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| アッシュル・バニパル王の図書館 |
出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書 終章・ペンを携帯した王 ・シュメル文化の継承 :278・279頁
粘土板が読めるアッシュル・バニパル王は珍しい粘土板を集めさせていた。
1845年に、イギリス人A・H・レヤードが
大英博物館の援助のもとにアッシリアの
古都カルフ(現代名ニムルド)とニネヴェの発掘を開始し、
1853年にレヤードの助手H・ラッサムが
「アッシュル・バニパル王の図書館]を発見した。
ニネヴェからは図書館とおぼしき建物が複数発見されているが、
なかでも王宮の玉座の裏側の通路に並べられていた
2万枚あるいは4万枚ともいわれる粘土板文書を特に
「アッシュル・バニパル王の図書館」という。
王はライオン狩で仕留めたライオンを悦にいって眺めたように、
蒐集した粘土板を毎日楽しく眺めていたのだろうか。
これらの粘土板は王が力にものをいわせて集めたものである。
バビロン市に近いボルシッパ市のエジダ神殿には
書記術の守護神ナブが祀られていて、
当然貴重な粘土板があった。
王がこれに目をつけて、
ニネヴェ市にある王宮に持ってくるように命じた手紙も残っている。
また、当時、すでに個人で蔵書を持っている人々もいたが、
カルフ市出身のある学者が持っていた蔵書も
「アッシュル・バニパル王の図書館]に併合された。
こうして集められた粘土板には奥付がっけられ、
また王の所有物であるとの文章が付けられることもあり、
さらに粘土板を盗む者への警告として
呪詛の言葉が付け加えられることもあった。
アッシュル・バニパル王が没するとまもなく、
王が力で切り取った帝国の版図は瓦解し、
前612年にはニネヴェ市は陥落してしまう。
一方で、王が集めた粘土板は上に埋もれたままで現在まで残った。
楔形文字で書かれた史料を用いて、
研究する学問を「アッシリア学」と総称するが、
これはメソポタミアにおける発掘が。
ハビロニア地方よりもアッシリア地方が先行し、
さらには「アッシュル・バニパル王の図書館」から出土した
多様な文書の解読がはじまりであったことによる。
現在では、「アッシリア学」は細分化され、
シュメル学、ヒッタイト学のように、
より専門的な分野に分かれて研究がおこなわれている。
※写真:カルフ(現代名ニムルド)遺跡
小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
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(2008/04/02(水) 02:31) |
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| 自慢の葦ペン |
出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書 終章・ペンを携帯した王 ・シュメル文化の継承 :276・277頁
王の腰帯のあたりに目を凝らしてもらいたい。
アッシリアの彫刻では、丸彫、浮彫ともに男性像をよく見ると
腰帯のあたりに柄のついたものを複数本さしていて、
やすりといわれている。
鉄の武器がさびるので、
やすりでしばしば研がざるをえなかったことを表していたようだ。
だが、アッシュル・バニパル王の腰帯にさしたものはやすりよりも細い。
なんと、これは葦のペンである。
この浮彫だけでなく、
扉の浮彫でも王は葦でできた二本のペンを腰帯に挟んで表現されている。
さしずめ現代ならば、
オーダーメードの背広の胸に、高級万年筆というところだろうか。
王が望んで、彫刻師に彫らせた姿にちがいない。
アッシュル・バニパル王はバビロニア王であった
兄シャマシユ・シュム・ウキンとの争い、
エジプト遠征やエラム侵攻と武勇に長けた王の印象が強いが、
実は彼は文武両道の達人であった。
500年後に登場するユリウス・カエサル(前100−44年)は
ガリア(現在のフランス)やエジプトに遠征し、
ローマの領土を拡大するとともに、
ラテン語の名文
『ガリア戦記』『内戦記』を残したことでも知られているが、
アッシュル・バニパル王はカエサルの先駆者ともいえる。
文字の読み書きができたアッシュル・バニパル王は自叙伝を残していて、
大英博物館に陳列されている。
王の先祖たちは誰も読み書きはできず、
王の伝記となれば書記が決まりきで美辞麗句を並べるのが通り相場であった。
ところが、この自叙伝では自ら掛け算、割り算の問題を解け、
アッカド語だけでなく、難しいシュメル語も読めたことを自慢している。
古代メソポタミアの帝王で文字の読み書きができた王は
少なかったことはすでに第七章で話したが、
ウル第三王朝のシュルギ王(前2094−2047年頃)が
同じように複数の言語が理解でき、
算数ができることを自慢していたこととよく似ている。
※写真:弓をひくアンシュル・バニパル王 腰帯には2本の葦ペンが挟んである。 ニネヴェ出土(大英博物館蔵)
※写真:(上)有翼精霊 やすりを携帯している (メトロポリタン美術館蔵)
※図:(下)ライオンを仕留めるアッシュル・バニパル王 腰帯に2本の葦ペンが挟んである
小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
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(2008/04/02(水) 02:29) |
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| アッシュル・バニパル王のライオン狩 |
出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書 終章・ペンを携帯した王 ・シュメル文化の継承 :275頁
話は少し時間をさかのぼるが、
新バビロニア王国とメディア王国の連合軍により、
首都ニネヴェ市が前612年に陥落し、
新アッシリア帝国が滅亡したのは前609年のことであった。
新アッシリア帝国の最大版図を誇った
アッシュル・バニパル王(前668−627年)が逝去して、 まもなくのことである。
アッシュル・バニパル王の肖像はニネヴェ出土
「ライオン狩浮彫図」などにその姿が刻まれている。
当時、アッシリアにはライオンがいた。
ライオン狩は武人としての訓練、
スポーツの要素を持っとともに宗教的儀式であった。
ライオンが「魔」を象徴し、
その「魔」を仕留めることで王が
宇宙の秩序を整えるという意味があったという。
この一連の儀式が浮彫にされ、
往時はニネヴェの王宮の壁を飾っていたが、
現在は大英博物館のアッシリア室に陳列され、
圧倒的迫力で見る者を惹きつけている。
アッシリアの浮彫は写実的で迫力があることで、
美術史の上でも評価が高い。
ことにライオンや馬のような動物の筋肉表現の素晴らしさは
高く評価されている。
さて、扉の浮彫とはちがうもう一枚の浮彫を紹介しよう。
馬に跨った王の装束はロゼット文様が見え、
裾には房があしらってある豪華なもので、ブーッを履いている。
王の装束は扉の写真と同一である。
小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
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(2008/04/02(水) 02:28) |
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| シュメル人はどこへ行ったか |
出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書 終章・ペンを携帯した王 ・シュメル文化の継承 :274頁
シュメル人の統一王朝にして最後のウル第三王朝(前2112−2004年頃)は
前2004年頃にエラムの侵入によって滅亡したが、
シュメル人はその後も生き続けていた。
だが、シュメル人は古くから共生していたアッカド人に加えて、
アモリ人(マルトク人)が侵入したことによって
セム語族の圧倒的文化のなかに埋没せざるをえなかった。
前2000年紀にはアモリ人が建てた
イシン第一王朝(前2017−1794年頃)、
ラルサ王朝(前2025−1763年頃)
そしてバビロン第一王朝(前1894−1595年頃)などが分立したが、
なかでもウル第三王朝の
イッビ・シン王(前2028−2004年頃)を
手玉にとったイシュビ・エラ(前2017−1985年頃)が創建した
イシン第一王朝はウル第三王朝の後継者を任じていた。
王たちは王碑文、王讃歌および法典にシュメル語を用いていた。
しかし、日常の言語はもはやシュメル語ではなくアッカド語へと変わって行った。
シュメル語は死語になろうとしていた。
それでも前に話したように学校ではシュメル語が教えられていた。
今に残る文学作品の多くは、この時期に粘土板に書かれたものである。
いずれはシュメル語が死語になるであろうことを、
たとえばニップル市の書記たちはわかっていたと思う。
わかっていたからこそ、懸命に粘土板に文学作品を書き残した。
いつか誰かに読んでもらえる日があることを信じていたにちがいない。
第七章で話したように、
19世紀末にニップル市の発掘がペンンルヴェニア大学によっておこなわれ、
約3万枚の粘土板文書が発見されたが、
このなかには3000枚以上の文学作品が含まれていた。
宗教や法律用語としてのシュメル語は新バビロニア時代(前625−539年)
つまり古代メソポ夕ミア史の流れのなかで最後となる時代まで継承されていた。
小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
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(2008/04/02(水) 02:26) |
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| アンシュル・バニノてル王のライオン狩浮彫図 |
出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書 終章・ペンを携帯した王 ・シュメル文化の継承 :273頁
家来をしたがえ、
豪華な衣装をまとった人物がライオンを仕留めている図である。
古代メソポタミア史で最も知られている人物といえば、
この人物になると思う。
新アッシリア帝国時代にエジプトまで支配し、
最大版図を誇ったアッシュル・バニパル王である。
ギリシア語ではサルダナパロスの名前で呼ばれ、
暴虐非道なオリエントの典型的専制君主と伝えられたが、
実際はちがっていた。
どうちがっていたかを本文で紹介しよう。
大理石、ニネヴェ市出土、前7世紀頃、大英博物館蔵
※写真:アンシュル・バニノてル王のライオン狩浮彫図
小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
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(2008/04/02(水) 02:25) |
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| エラムのジグラト |
出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書 第九章・「バベルの塔」を修復する王 ・統一国家形成と滅亡・シュメルの滅亡 :270・271・272頁
イッビ・シン王が連れ去られたエラムの地、
つまり現在のイラン南西部は油田地帯である。
1935年に油田探索の調査飛行中に、
土でできた不思議な山が発見された。
前13世紀頃のエラム王ウンタシュ・ナピリシャが建造した聖域で、
その中央にジグラが吃立(きつりつ)していた。
これがユネスコ世界遺産に登録されている
チョガ・ザンビルのジグラトであって、
現在は復元されている。
このジグラトは平面規模では
メソポタミアのどのジグラトよりも大きく、
ほぼ一辺105メートルの止方形で、
四隅は東西南北を指している。
五層の基壇から成り、
高さは現在約28メートルだが、
本来は倍の高さがあったと考えられている。
なんたることか、
シュメル人が蔑視していたエラムが後代とはいえ、
本家シュメルを凌ぐ壮大なジグラトを建立していた。
シュメル人がこのジグラトを見たらなんと思っただろうか。
エラムはシュメルに侵入するたびに、
ウル市のジグラトをはじめ、
諸都市のジグラトを見たはずである。
武力ではシュメル人を負かせても、
シュメル文化には負けていた。
エラムはシュメルで見た憧(あこが)れのジグラトを自国に建てたのであろう。
チョガ・ザンビルのジグラトは建てられてから600年ほど経って、
前640年頃に新アッシリア帝国(前1000−609年)の
アッシュル・バニパル王(前668−627年)によって
スサ市のジグラトとともに破壊された。
※写真:チョガ・ザンビルのジグラト
小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
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(2008/04/02(水) 02:20) |
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| ウル市減亡哀歌 |
出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書 第九章・「バベルの塔」を修復する王 ・統一国家形成と滅亡・シュメルの滅亡 :269頁
こうしてウル第三王朝の統一は破綻した。
すでに内にイシン第一王朝が成立し、
外からはマルトゥ人などの侵入がやまない。
イッビ・シン王は治世二五年(前2004年頃)に
エラムの襲撃で捕らわれ、ウル第三王朝は滅亡した。
王朝の滅亡は大きなできごとであって、
この悲劇を悼む『ウル市滅亡哀歌』
『 第二ウル市滅亡哀歌』
(あるいは『シュメルとウル市滅亡哀歌』)などが作られた。
『第二ウル市滅亡の哀歌』では、
「アン神、エンリル神、
エンキ神およびニンフルサグ女神がその運命を決定した」と
ウル市の滅亡が
「運命を定める大神たちの定め」であると人々は悟りながらも、
過酷な運命を嘆かざるをえない心情が述べられている。
ウル市の人々はもはや住みなれた所に住むべきではなく、
彼らは敵地に住むことになるべし、
敵であるシマシュキ、エラムは彼らの土地に住むべし、
その牧人は自身の宮殿で敵によって捕らえられるべし、
イッビ・シンは囚われの身でエラムの地に連れて行かれるべし、
海の縁のザブの山からアンシャンの境まで、
その家から飛び立ちし燕の如く、
彼は彼の都市に決して戻ることなかるべし。
戦禍による悲惨な状況が五○○行以上延々と述べられている。
これ以降、シュメル人は二度と歴史の主役となることはなかった。
小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
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(2008/04/02(水) 02:19) |
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| イッビ・シン王の返書 |
出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書 第九章・「バベルの塔」を修復する王 ・統一国家形成と滅亡・シュメルの滅亡 :268頁
イッビシュ・エラ将軍のこの手紙に対する返書が残っている。
イッビ・シン王がイシュビ・エラを叱責する内容である。
また、そこでは国家の滅亡はシュメルの最高神エンリルが
都市とその都市神を嫌ったことから始まり、
その結果エラム人のような蛮族に引き渡されるのだという理念が示されている。
イシュビ・エラにいえ。
汝の王、イッビ・シン神が語ることを。
エンリル神は我が王であるのに、
汝(=イシュビ・エラ)はどこへ行こうとするのか。
汝は次のような(無礼な)言葉を返してきた。
「まさにエンリル神が私(=イッビ・シン)を嫌い、
彼の子シン神を嫌った。
ウル市は異邦人に与えられるだろう。
そのための場所はなく、異邦人は蜂起し諸国は騒乱状態になる」と。
エンリル神(の厚意)が彼の子シン神(=ウル市)に戻ったとき、
汝の言葉が(そのまま汝に対する)予言となるであろう。
イッビ・シン王はイシュビ・エラに対して
穀物の買い入れに銀20グを渡したのに、
その銀で買える量の半分の穀物しか送ってこないのはなにごとか、
また王に忠実な将軍に逆らってまでマルトゥ人の侵入を許したのはなぜか、
と手紙で詰間したが、むだであった。
この手紙が書かれてまもなく、イシュビ・エラ(前2017−1794年頃)は
イッビ・シンに叛旗を翻して
イシン第一王朝(前2017−1794年頃)を樹立して、王位に即いた。
小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
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(2008/04/02(水) 02:18) |
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| 倣慢な手紙 |
出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書 第九章・「バベルの塔」を修復する王 ・統一国家形成と滅亡・シュメルの滅亡 :265・266・267頁
教材の手紙の研究からウル第三王朝が滅亡した事情がわかるようになった。
ウル第三王朝時代にはシュメル地方では
土壌の塩化が進み、大麦の収量倍率が激減していた。
初期王朝時代末期(前24世紀中頃)には
ラガシュ市において76.1倍であったものが、
前21世紀のウル第二王朝の属州ギルス(以前のラガシュ市)では
30倍に減少していた。
この数字はシュメル地方のほかの地域でもそうちがわなかったと考えられる。
第五代イッビ・シン王(前2028−2004年頃)の治世になると、
東方からはエラム人、
西方からはマルトゥ人(アモリ人)と外敵の脅威が増し、
しかも同王の治世六年にウル市で発生した飢饉は数年続いて、
穀物価格が60倍にも高騰した。
そこで、イッビ・シン王は
マリ市出身のマルトゥ人の将軍イシュビ・エラに大麦購入を命じた。
イッビ・シン王に宛てた、イシュビ・エラ将軍の大麦購入報告の手紙があり、
将軍の狡猾な性格をよく伝えている。
イシュビ・エラは通常の倍の価格で大麦を買い入れておいた上で、
マルトゥ人の侵人のためにウル市に搬入できないので、
輸送のための船団を送ってほしいと書いている。
さらに恩着せがましく、イシュビ・エラは
ウル市で食糧不足が生じれば大麦を搬入する、
また戦いに疲れ穀物が底をつきつつあるエラムに対して
マルトゥ人への救援を求めるべきではない、
自分は王宮と諸都市を一五年間維持するに足る食糧を確保しているので、
イシンおよびシュメルの聖都であるニップル両市の守備は
自分に任せてほしいと手紙を結んでいる。
イシュビ・エラの手紙を以下に紹介する。
我が王イッビ・シン神にいえ。
あなたの下僕(しもべ)イシュビ・エラが語る(ことを)。
あなたは私に大麦を購入するためにイシン市とカザル市へのを命じられました。
価格は大麦一グルにつき(銀1ギン)です。
大麦購入のための(私に与えられた)銀20グがあります。 異邦人マルトゥ人があなたの国土に入り込んでいるとの伝令が
私の元に届いています。 イシン市に7万2000グルの大麦のそのすべてを持って行きました。
今やマルトゥ人のすべてが国土のなかに入っています。
多くの大いなる城塞が占領されました。
マルトゥ人のためにその大麦を南方に運べません。
彼らの強さに私は敵(かな)いません。
我が王よ、120グル容量の船600艘をお造りになりますように。
(中略)
15年分の大麦、
あなたの王宮やあなたの諸都市を維持するに足る(大麦)は私の手にあります。
イシン市とニップル市を警護することを我が王は私に任されました。
我が王よ、このことをお知り下さい。
(1ギン= 約8.3グラム、1グル= 約122.4リットル、
20グは7万2000ギンで約598キログラム)
イッビ・シン王は神格化されていて、
名前の前に神であることを示す限定詞が付けられている。
また、円筒印章の図柄にその姿が刻まれたイッビ・シンは、
手に杯を持ち、壇上のクッション付き腰掛けに座っているが、
この姿が神格化を表現しているという。
※ 写真:イッビ・シン王 鼻が高い。またひげがないことから若い頃のようだ
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