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   歴史回廊(遷都):オリエント(ウバイド・シュメル)
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 元祖「学園もの」
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第七章・最古の文学者エンへドゥアンナ王女
    ・読み書きと学校・学校の生活
    :208頁

 学校についての詳しい情報は

 前3000年紀のシュメル人が活躍していた時代からではなく、

 前2000年紀前半の古バビロニア時代の記録から得ることができる。

 その頃にはウル市、ニップル市、シッパル市などにも学校があった。

 学校の構成員としては次のような人々が知られている。

 ウンミア「長」や

 アブエドゥブバ「粘土板の家の父」は現代の先生にあたり、

 シェシュガル「兄」は助手、

 ドゥムエドゥブバ「粘土板の家の子」は生徒になる。

 また、元祖「学園もの」とでもいうべき、

 学校を題材とした文学も存在した。

 四作品が知られている。

 学校に通う生徒の一日を伝える

 『学校時代』 、

 父と息子の質疑応答形式の会話から構成されている

 『父親と厄介息子』 、

 二人の学生が討論する過程から間接的に学校の教科がわかる

 『口論する二人の生徒』

 および学校の卒業生が彼らの受けた教育を回顧する

 『 監督官と書記の対話』の四作品である。

 これらの文学作品の末尾には

 「学校で書かれた。ニサバ女神に栄えあれ」と書かれていることから、

 文学の創作も学校でおこなわれていたと見られる。

 ニサバ女神は書記術の守護神である。

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書


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(2008/03/31(月) 10:01)

 世界最古の「謎々」
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第七章・最古の文学者エンへドゥアンナ王女
    ・読み書きと学校・学校の生活
    :206・207頁

 神々の名前だけが羅列されているリストを読まされ、

 神名が書けるように繰り返し習字を指導された生徒たちは

 たいくつであったと思う。

 生徒たちが面白く学びながら、

 神々の名前などを書けるようにするために工夫された教材が

 「謎々」であった。

 前項で紹介した「謎々」もその一つだが、

 さらに古い、前24世紀頃の最古の「謎々」が発見されている。

 1968年からラガシュ市のラガシュ地区(現代名アル・ヒバ)の発掘が

 メトロポリタン美術館とニューヨーク大学とによって始まり、

 多数の文書などが出土した。

 このなかに世界最古の「謎々」が含まれている。

 この謎々では、

 都市の各地区にとって重要な運河名および守護神名に続いて、

 魚と蛇の名前が挙げられ、地区の名前を当てるようにできている。

 シュメル地方はペルシア湾岸の低地であって、

 河や運河そして沼地が入り組んでいて、夏は高温になる。

 こうした場所にはさまざまな魚や蛇が棲息していただろうし、

 また魚と蛇はトーテム

 (ある集団の象徴あるいは守護神となる特定の動植物)

 であったとも考えられている。

 欠損箇所が多くわ
  その運河はシララギン、

  その(守護)神は気高いナンシェ女神、

  その魚は「人を喰う」、その蛇は「……」。

  (中略)

  その運河はエンア「ガル」、

  その神はアブズ(= 深淵)の大使者へンドゥルサグ神、

  その魚は蛇魚、その蛇には角がはえている。

  (中略)その運河は「……」、

  その守護神はエンリル神の大戦士ニンギルス神、

  その魚は「……」]その蛇は「……」。

 最初の「謎々」は、かいつまんでいえば

 「シララギン運河が流れ、ナンシェ女神が守る地区、

  その名前はなんでしょうか」となり、

 ここには答えが掲載されていないが、

 ナンシェ女神の名前が書かれていることなどから、

 答えは「シララ地区」になる。

 次はラガシュ地区の守護神へンドゥルサグ神の名前が見えることから、

 答えは「ラガシュ地区」を指している。

 最後の「謎々」にはニンギルス神の名前があり、

 ニンギルスはラガシュ市の都市神であるが、

 同時にギルス地区を守護する神でもあるから、

 答えは当然「ギルス地区」を指すことになる。

 これらは、「謎々」の答えを考えながら、

 ラガシュ市の運河や神々の名前などを

 覚えられるように工夫されている。かりにくいが、一部を紹介しよう。

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書



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(2008/03/31(月) 10:01)

 学校の「謎々」
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第七章・最古の文学者エンへドゥアンナ王女
    ・読み書きと学校・学校の生活
    :204・205頁

  天の如き基礎を持つ家、

  水瓶(みずがめ)の如き基礎を持つ家は亜麻で覆われていて、

  鵞鳥(がちよう)の如く(堅固な)基礎に建つ家、

  開かれていない目を持つ者がそこに入り、

  開いた目を持つ者がそこから出て来た。

  その答え(は)「学校」。

 シュメル語の「謎々」である。

 シュメルには書記を養成するための学校があった。

 学校の屋根には砂埃と熱暑を避けるために

 亜麻布がかぶせられていたようだ。

 ユーフラテス河中流域のマリ遺跡では、

 バビロン第一王朝(前1894−1595年頃)の

 ハンムラビ王(前1792−1750年頃)に滅ぼされた、

 最後の王ジムリ・リムの王宮から粘土製の長い椅子が

 並べられた部屋が発見された。

 これは学校と考えられた。

 だが、教科書は発見されていない。

 学校はシュメル語では、エドゥブバ「粘土板の家」と呼ばれ、

 書記つまり役人養成を目的としていた。

 官僚制の整ったメソポタミアやエジプトのような社会では

 役人は不可欠で、役人ともなれば文字の読み書きが必須条件であった。

 子供に文字の読み書きを教えることは親でもある程度まではできるが、

 それよりも子供を集めて、

 教えることの上手な大人が教えた方が合理的であると考えたようだ。

 それが「学校」の誕生である。

 ウルク古拙文書にすでに文字の表のようなものが見られる。

 また、シュルッパク市(現代名ファラ)からも前2600年頃ともいわれる

 「神名表」が出十している。

 書記は神々の名前を書く必要があったので、

 こうしたリストはそのための教科書であろう。

 教科書が出土していることから

 ウルク市やシュルッパク市にも

 学校があったと想像されるが、

 詳細はわからない。

 ※写真:マリ王宮で発掘された学校の教室跡
     椅予が並び、小さな粘土板を入れる容器も見える

 ※図:学校の教室復元想像図

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書

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(2008/03/31(月) 09:59)

 帝王の識字率
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第七章・最古の文学者エンへドゥアンナ王女
    ・読み書きと学校・学校へ通う王
    :203頁

 アジアでは中国の皇帝にしろ、

 日本の天皇であれ、

 文字の読み書きができることは自明の理であって、

 そのうえで当該の帝王が

 能書か、詩才があるかなどといったことが云々された。

 一方、メソポタミアのみならず、古代オリエント世界では

 文字の読み書きができるか否かは帝王の必要条件というわけではなく、

 文字の読み書きは書記(役人)の仕事であった。

 ウル第三王朝の王たちで文字の読み書きができたことがわかっているのは

 シュルギ王だけである。

 古代メソポタミアの帝王たちの識字率がどのくらいであったかは

 わからないが、高くはなかっただろう。

 まれに文字の読み書きができると、

 王はそのことを自慢した記録を残していることがある。

 イシン第一王朝(前2017−1794頃)の

 第三代イディン・ダガン王(前1974−1954年頃)

 および第五代リピト・イシュタル王(前1934−1924年頃)は

 読み書きができたようで、

 後者は『リピト・イシュタル王讃歌』 のなかで、

 書記術の守護神ニサバ女神から文字を学んだと自慢している。

 また、新アッシリア帝国(前1000頃−609年)の

 アッシュル・バニパル王(前668−627年)は

 文字の読み書きができ、自叙伝を書いている。

 この王については終章で詳しく話そう。

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書

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(2008/03/31(月) 09:58)

 学校へ通った王
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第七章・最古の文学者エンへドゥアンナ王女
    ・読み書きと学校・学校へ通う王
    :202頁

 「王讃歌」はウル第三王朝時代から古バビロニア時代にかけて作られ、

 統一国家が確立された時期において、

 王の偉大さをほめたたえることが目的であった。

 シュルギ王は自らを讃える『シュルギ王讃歌』を

 現在わかっているだけでも約二○篇作っている。

 『シュルギ王讃歌』 は長い期間にわたって写本が作られ、

 学校で教材として使われていた。

 『シュルギ王讃歌B』 によれば、

  私(=シュルギ)の少年の頃から、私は学校に属し、

  シュメル語とアッカド語の粘土板で私は書記術を学んだ。

  少年の誰一人、私のように粘土板を(上手に)書くことはできなかった。

 シュルギは学校へ通って、シュメル語とアッカド語を学び、算数も習い、

 成績が良かったことを自慢している。

 またシュルギは、「私は五つの言語で答えた」とも書かれていて、

 語学の才能があったようだが、

 具体的にどのような言語であったかはわかっていない。

 さらに、シュルギは優れた行政官、軍人であるだけでなく、

 ウル市およびニップル市にキウムン(=アカデミー)を作り、

 文化活動の良き理解者でもあった。

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書

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(2008/03/31(月) 09:56)

 有能なシュルギ王
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第七章・最古の文学者エンへドゥアンナ王女
    ・読み書きと学校・学校へ通う王
    :201頁

 ウル第三王朝第二代のシュルギ王は有能な王であった。

 彼の48年にわたる長い治世は「年名」からたどることができ、

 治世二○年頃に諸改革をおこなっている。

 出土した行政経済文書の多数は治世二○年代の後半以降に書かれ、

 中央、地方を問わず行政組織が整えられた。

 各都市の文書の形式、用語も統一され、度量衡も統一された。

 治世二○年の「年名」に「ウル市の市民が槍兵として徴兵された年」があって、

 この年に常備軍が作られたようだ。

 二○年以降に外征についての「年名」が増え、なかでもフリ人征伐に力を注いでいる。

 このようにシュルギ王は行政官としても軍人としても業績をあげているが、

 これは王が子供のときに学校で教育を受けたことと無縁ではないだろう。

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書

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(2008/03/31(月) 09:56)

 識字率
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第七章・最古の文学者エンへドゥアンナ王女
    ・読み書きと学校:王女・女神官・詩人
    :200頁

 前3000年紀におけるバビロニアあるいはシュメルの

 識字率(読み書きのできる人の割合)が

 どのくらいであったかは不明である。

 ただし、高くはなかったことは確かである。

 きわめて限られた人々 、つまり書記しか読み書きはできず、

 王といえども読み書きはできなかったよう だ。

 第三章で話したようにシュメルでは円筒印章が使用されていた。

 印章には所有者の名前が刻まれていることがあり、

 こうした印章の所有者は少なくとも自分の名前ぐらいは

 わかった可能性はあるが、

 名前以外の文字が読めたかとなると疑問である。

 シュメルでは男性だけでなく、女性も円筒印章を持っていた。

 ニンバンダ、バルナムタルラのような后妃たちの円筒印章には

 シュメル語で名前が刻まれていて、

 当然后妃たちは自分の名前ぐらいはわかったのではないだろうか。

 では女性の識字率となると、

 男性よりは低かったであろうが、具体的にはわからない。

 古バビロニア時代のバビロニアには書記養成のための学校が

 いくつかの都市にあったことが確認されていて、

 シッパル市には女性の書記たちもいたことがわかっている。

 また、マリ市のジムリ・リム王治世(前18世紀頃)での、

 油支給の記録には九人の女性の書記が見られるが、

 油支給の量から見ると小間使い、清掃婦と同量であり、

 この場合の女性書記は高い地位にあったとはいえない。

 一方、王家の女性たちは文字の読み書きを学びうる環境に恵まれ、

 文才のある女性は才能を開花できたようだ。

 エンへドゥアンナ王女よりも後代になるが、

 ウル第三王朝(前2112−2004年頃)

 初代ウルナンム王(前2112−2095年頃)の后妃は王の戦死に際して哀歌を、

 そして第二代シュルギ王(前2094−2047年頃)の后妃は

 子守唄を作ったといわれている。

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書

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(2008/03/31(月) 09:54)

 最古の文学者
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第七章・最古の文学者エンへドゥアンナ王女
    ・読み書きと学校:王女・女神官・詩人
    :198・199頁

 古来我が国で未婚の内親王が斎宮(いつきのみや)として伊勢神宮に仕えたように、

 王家の女性が神に仕えることは、時の王権の安泰を願うことでほかにもありえたが、

 エンへドゥアンナ王女は女神官であるだけでなく、立派な文学者でもあった。

 エンへドゥアンナ自身はアッカド人だが、

 アッカド語のほかにシュメル語の読み書きができたようで、

 シュメル語で詩作をした。

 シュメルおよびアッカドの諸神殿を讃えた詩歌

 『シュメル神殿讃歌集』には

「粘上板を結びつけた者(=編纂者)(は)エンへドゥアンナ(である)」と

 書かれているし、

 『イナンナ女神讃歌』も作っている。

 『イナンナ女神讃歌』 は

 イナンナ女神を「ニンメシャルラ」

 つまり「すべてのメの女主人」と呼びかけることから始まるが、

 これが当時の書名(後述)であった。

  すべてのメの女主人、まばゆい光、

  光輝でおおわれた正義の婦人、天と地の最愛の者、

  アン神の聖娼、すべての大いなる装飾の(あなた)、

  ふさわしい冠に魅了され、エン女神官にふさわしく

  その手が(すべての)七つのメに達し、

  私の女主人、あなたはすべての大いなるメの保護者です。

 「私」つまり、エンへドゥアンナ自身を語る部分はこうである。

  まさに私が私の聖なるギパルにあなたの命令で入った、

  私、エン女神官、私、エンへドゥアンナ、

  私は儀式用の籠を運び、私は歓呼の声をあげた。


 古代メソポタミアで、文字の読み書ぎができ、

 バイリンガル(二カ国語常用者)であって、

 さらに文才もあったことを確認できる最古の人物はエンへドゥアンナになる。

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書

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(2008/03/31(月) 09:53)

 女神官
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第七章・最古の文学者エンへドゥアンナ王女
    ・読み書きと学校:王女・女神官・詩人
    :197頁

 エンへドゥアンナ王女はアッカド人であるが、

 その名前はシュメル語で「天において讃えられる(女)主人」を意味する。

 ウル市の月神ナンナ神に仕えるエン女神官であった。

 エン女神官の最も重要な役割の一つは「聖婚儀礼」への参入であって、

 ウル市の新年祭ではナンナ神の配偶神ニンガル女神の名代であった。

 初代サルゴン王以来、

 アッカド王朝によるシュメル地方の支配は磐石ではなく、

 シュメル諸都市の謀反に悩まされ続けた。

 第四代ナラム・シン王(前2254−2218年頃)への謀反のさいには、

 エンへドゥアンナ白身もウル市から一時追放され、

 そのときにこの「奉納円盤」が壊されたようだ。

 王女がエン女神官になる習慣はエンへドゥアンナの後も続き、

 ナラム・シン王の娘も女神官になっているし、

 途中で断絶したものの、

 新バビロニア王国(前625−539年)最後の王、

 ナボニドス王(前555−539年)の娘まで続いていた。

 現在わかっている限りでは王女が女神官になる例は

 エンへドウアンナが最古の例であるが、

 アッカド王朝になって始まった習慣ではなく、

 それ以前にもありえたと思う。

 ラガシュ市で、ウルナンシェ王朝創始者のウルナソシェ王は

 神殿に掲げる奉納額を作っていて、

 四枚残っているが、そのうちの一枚(48ページ参照)では

 後継者である王子の前に娘アブダ王女の姿をやや大きく刻ませている。

 残り三枚(うち二枚は欠損箇所あり)の奉納額には女性の姿はなく、

 アブダ王女が女神官であったならば、この例外的な扱いは理解できるので、

 アブダ王女はエンへドゥアンナ王女の先駆者ではなかったかと思われる。

 ※ 写真:エンアンナトウムマ王女
     ウル市のナンナ神に仕えるエン女神官。
     イシン第一王朝第4代イシュメ・ダガン王(前1953−1935年頃)の娘
     (ペンシルヴェニア大学博物館蔵)

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書

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(2008/03/31(月) 09:51)

 エンへドウアンナ王女
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第七章・最古の文学者エンへドゥアンナ王女
    ・読み書きと学校:王女・女神官・詩人
    :196頁

 最古の文学者エンへドゥアンナ王女は

 アッカド王朝(前2334−2154年頃)

 初代サルゴン王(前2334−2279年頃)の娘であった。

 エジプトにくらべてメソポタミアの場合は

 その人物の面影を伝える物が残っていることは少ないが、

 王女の場合は、その姿を刻んだ「奉納円盤」が残っている。

 「奉納円盤」はウル市からひどく壊された状態で、

 ウーリーによって発見されている。

 石灰岩製で、現在はペンシルヴェニア大学博物館に収蔵されている。

 円盤中央に帯状に浅浮彫が刻まれている。

 左端には四層のジグラトがそびえ立ち、

 その前では神官が聖水を祭壇に注いでいる。

 神官の背後に、二人の侍女をしたがえたエンへドゥアンナが立っている。

 目鼻立ちがくっきりとした容貌であって、

 女神官にふさわしいかぶり物をして、

 シュメルの伝統的なひだのある衣服を身に着けている。

 右手首から先が破損しているが、

 鼻に手を置く、祈りの仕草をしているようである。

 ※ 図:エンへドウアンナ王女

    (左から2人目)

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書

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(2008/03/31(月) 09:50)

 エンへドウアンナ王女の奉納円盤
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第七章・最古の文学者エンへドゥアンナ王女
    ・読み書きと学校
    :195頁

 人類の半分は女性であるが、

 歴史に登場する名前のある人物となると、

 ほとんどが男性で、古代史ではなおのことである。

 女性が記録されるのは男性とのかかわりにおいて、

 たとえば何某なる王の妻だとか娘だとかいうときだけであって、

 その女性自身の能力に基づいてなにをしたかで

 記録されていることは少ない。

 その数少ない例の一人を紹介しよう。

 ウル市出土の本納円盤にその姿を見ることができる、

 アッカド王朝初代サルゴン王の娘

 エンへドゥアンナ王女がその人であり、

 彼女は最古の文学者であった。

 本章ではエンへドゥアンナを端緒に、

 シュメルの知的世界を紹介しよう。

 ※ 写真:エンへドウアンナ王女の奉納円盤
     石灰岩、ウル市出土、前24−23世紀頃、直径26 . 5cm
     (ペンシルヴェニア大学博物館蔵)

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書


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(2008/03/31(月) 09:49)

 「西戎」アモリ人
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第六章・「真の王」サルゴン
    ・最古の国際社会・民族対立はあったか
    :193・194頁

 アモリとはアッカド語の呼称で、

 シュメル語ではマルトゥという。

 「西方」の意味である。

 前2600年頃といわれるファラ文書には

 「エアギド、マルトゥ(人)」と書かれていて、

 この「エアギド」が確認される最古のアモリ人の個人名になる。

 アモリ人はバビロニアに定住すると

 アッカド語の名前を名乗る例が多かったが、

 前22−16世紀のアッカド語文書にはアモリ語の名前も見られる。

 アッカド語は東方セム語だが、

 アモリ語は北西セム語に分類されている。

 たとえば「法典」で有名なハンムラビ王は

 「ハンム神は偉大である」を意味するアモリ語の名前である。

 のちのウル第三王朝時代にはアモリ人の侵入は勢いを増し、

 城壁を築いて侵入を阻止しなければならなかった。

 城壁建設は第二代シュルギ王(前2094−2047年頃)の治世に始まっていて、

 治世三七年の「年名」は「国の城壁が建てられた年」である。

 第四代シュ・シン王(前2037−2029年頃)の

 治世四年の「年名」は

 「ウル市の王、シュ・シン神が

  『それがティドヌム(=アモリ人の一部族)を遠ざける』

  と呼ばれるマルトウ(=西方)の城壁を建てた年」である。

 メソポタミアは周囲が開けていたので、

 前3000年紀にはさまざまな人々が入ってきた。

 古くから共存していたアッカド人は別として、

 シュメル人にとって、ほかの人々は蛮族であり、

 追い払うべき勢力でしかなく、共存はありえなかった。

 話が先に進んでしまった。

 ウル第三王朝の滅亡については第九章で話すが、

 そこでもう一度

 「東夷」エラムと

 「西戎」マルトゥに触れる。

 殺伐とした話が続いてしまった。

 次章では少し時間を戻して、

 趣をかえて最古の才媛の話からはじめよう。

 ※ 写真:マルトウ神(佐端)

    手に杖を持ち、ガゼルの上に乗る姿は遊牧の民マルトゥ(アモリ)人を象徴

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書

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(2008/03/31(月) 01:32)

 山の大蛇グティ人
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第六章・「真の王」サルゴン
    ・最古の国際社会・民族対立はあったか
    :191・192頁

 グティ人の民族系統はわからない。

 『シュメル王朝表』ではシャル・カリ・シャリ王が25年支配した後は

 「誰が王であったか?誰が王でなかったか?」と書かれ、

 第六代から第一一代のアッカド王朝の王の名前が挙げられている。

 その後はウルク市に王権が移って、五王が30年支配した後で、

 王権は武力によって「グティ人の群れ」に持って行かれ、

 二一王が91年と40日間支配したと書かれている。

 アッカド王朝を衰退に追い込んだグティ人の支配を終わらせ、

 その王ティリガンを敗北せしめたウルク市の王、

 ウトゥへガル王の王碑文(古バビロニア時代の写本)は

 次のように書いている。

  エンリル神(に奉献する)

  グティ、山の大蛇(おろち)・蠍(さそり)、

  神々に暴力を働く者、

  シュメルの王権を異国に運び去った者、

  シュメルの地を邪悪で満たした者、

  妻ある者から妻を奪い、

  子供のある者から子供を奪いし者、

  国土に邪悪と暴力をはびこらせし者、

  国々の王、エンリル神は強き男、ウルク市の王、四方世界の王、

  その発言を取り消すことのない王、

  ウトゥへガルにその(=グティの)名前を滅ぼすように命じた。
  
  (中略)

  グティの王ティリガンはいう。

  私に刃向かう者はいない。

  彼はティグリス河両岸を占領していた。

  シュメルの南方で彼は耕地を封鎖した。

  北方では彼は道を閉じた。

  国土の道は長い雑草に覆われた。

 (中略)

 この後、ウトゥへガルはウルク市を出発し、

 途中、諸神殿で戦勝析願の犠牲を捧げながら進軍した。

  強き男ウトゥへガルは(グティの)将軍たちを破った。

  そのとき、グティの王ティリガンはただ一人徒歩で逃げた。

  彼が逃げた場所ダブルム市で、彼は(当初は)安全であった。

  (だが、)ダブルムの市民たちが、

  ウトゥへガルがエンリル神が力を授けた王であることを知り、

  彼らはティリガンを助けなくなった。

  ウトゥへガルの使者はダブルムでティリガンと彼の妻子を捕らえ、

  手枷(てかせ)をかけ、目隠しをした。

  彼(=ウトゥへガル)はウトゥ神の足ドにティリガンを横たえ、

  彼の首に足を置いた。

 グティ、山の大蛇・蠍「……」彼(=ウトゥへガル)が

 シュメルの王権を取り戻した。

 グティのティリガン王を破ったウトゥへガル王は、

 『シュメル王朝表』 によれば七年六ヵ月あまり支配したが、一代で終わり、

 部下の将軍であったともいわれるウルナンムがウル第三王朝を建てた。

 この新王朝には新たな脅威が今度は西方から侵入して来た。

 アモリ人である。

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書

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(2008/03/31(月) 01:30)

 アッカド市への呪い
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第六章・「真の王」サルゴン
    ・最古の国際社会・民族対立はあったか
    :190頁

 神となったナラム・シン王は、

 倣慢(ごうまん)な王と見られていたようだ。

 前2000年頃にシュメル語で書かれた文学作品

 『アッカド市への呪い』によれば、

 ナラム・シンがシュメルの最高神エンリルの聖都ニップル市を略奪し、

 エンリル神が祀られているエクル神殿を破壊するという大罪を犯したので、

 この不敬を怒ったエンリル神が

 山岳に住む蛮族グティ人をアッカド人に送り込み、

 アッカド王朝は滅亡を宣告されたのである。

 実際にはナラム・シン王はエクル神殿を修復していたし、

 またグティ人が侵入したのは

 第四代ナラム・シン王の治世ではなく、

 第五代シャル・カリ・シャリ王の治世であった。

 都市に住む文明人であることを誇りにしていた

 シュメル人やアッカド人にとって、

 蔑視していたグティ人に侵入されることは、

 屈辱的な、信じがたいできごとであった。

 ありえないできごとの原因を考えたとき、それは神の意思にちがいない、

 大神に対する不敬への罰であると合理化したのであろう。

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書

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(2008/03/31(月) 01:29)

 古代版「イラン・イラク戦争」
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第六章・「真の王」サルゴン
    ・最古の国際社会・民族対立はあったか
    :188・189頁

 エラムという名前はエラム語のハタミあるいはハルタミに由来し、

 シュメル語でエラムと表記された。

 エラムの言語系統はいまだによくわからない。

 前3000年紀にはシュメル人の影響で絵文字、線文字を工夫し、

 前13世紀−12世紀の中期エラム語になると楔形文字を借用している。

 エラムは本来スサを中心とする地域を指したが、

 イラン高原の奥地アンシャン市

 (現代名タレマリャーン。シラーズ北西四六キロメートルに位置する)

 にいたる地域に拡大された。

 高地あり、低地ありのイラン南西部の広大な地域であった。

 イラン高原の大部分が未開の地であった前3000年紀には、

 エラムはむしろメソポタミア平原の延長と考えられていた。

 シュメルとは交流があり、シュメルの史料にしばしば登場した。

 『シュメル王朝表』にはエラム地方のアワン市が含まれ、

 ラガシュ市を支配していたウルナンシェ王朝の王たちがエラムの諸都市と戦って、

 勝利したことを王碑文に書いている。

 エラムとラガシュとの戦争を伝えた手紙がある。

 初期王朝時代の手紙で唯一残っている、

 多分メソポタミア最古の手紙である。

 手紙の受取人、エンエンタルジは、

 ウルナンシェ王朝第六代で最後の王エンアンナトゥム二世の後に、

 ラガシュ市の王となった。

 エンアンナトゥム二世の父王エンメテナ王治世一九年には、

 エンエンタルジはニンギルス神のサンガ職(神殿の最高行政官)であって、

 エンアンナトゥム二世治世にもサンガ職であり続けた。

 手紙はその頃に、あるいはもう少し後に書かれた。

 手紙の発信人はラガシュ市のグアッバ地区の守護神

 ニンマルキ女神のサンガ職、ルエンナである。

 ルエンナは侵入して来たエラム軍を撃破したことを、

 エンエンタルジに宛てて手紙で伝えている。

 以下にその一部を紹介する。

 ニンマルキ女神のサンガ職、ルエンナが語る(ことを) 、

 ニンギルス神のサンガ職、エンエンタルジにいえ。

 600人のエラム人がラガシュ市から財物をえラムへ持ち去った。

 「ニンマルキ女神の」 サン「ガ」職ルエンナは「エラム人と]戦争をした。

 エラムで撃滅した。

 540人のエラム人を「捕虜にした/殺害した」。

 (略)

 エラムに住む人々はシュメル人やアッカド人から見ると「東夷」であったが、

 なかなか手強い敵であった。

 アッカド王朝とウル第三王朝の王たちはエラムに遠征を繰り返したが、

 エラムもまたメソポタミアへの侵入を止めることはなく、

 アッカド王朝滅亡の原因を作り、

 さらにはウル第三王朝を滅ぼした。

 その後もエラムはメソポタミアへの侵入をあきずに繰り返し、

 前七世紀の新アッシリア帝国

 アッシュル・バニパル王(前668−627年)の

 遠征によってようやく滅亡した。

 ※ 写真:(上)原エラム絵文字
        馬科の動物の会計簿らしい
     (下)女性像を装飾した銀製杯に刻まれているエラム線文字
        (テヘラン国立考古美術館蔵)

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書

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(2008/03/31(月) 01:28)

 不仲な隣国
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第六章・「真の王」サルゴン
    ・最古の国際社会・民族対立はあったか
    :187頁

 隣人とは仲良く付き合いたいものだが、そうはいかないこともある。

 国もそうであるが人とちがい、

 国と国との付き合いはこじれれば戦争である。

 歴史を顧みると、隣り合う国々は友好的であるというより、

 不仲である方が目につく。

 我が国も隣国とのお付き合いに常に頭を悩ませている。

 たとえばイギリス・フランスは「百年戦争」(1337−1453年)を、

 ドイツ・フランスは「普仏戦争」(1870−1871年)を、

 そして口シア・トルコも「露土戦争」

 (1676−1878年の間に12回)を戦っていて、

 ほかにも隣国間の戦争の例は数限りない。

 イラクと隣国のイランも同様であって、

 近では国境線の線引きに端を発する

 「イラン・イラク戦争」(1980−1988年)の激しい戦闘は、

 1979年に起きた「イラン・イスラム革命」後まもなくということも加味して、

 西アジアの問題にはあまり関心を払わない我が国でもしばしば熱心に報道された。

 いうまでもなく、イランとイラクとの戦争はこれが最初というわけではなく、

 5000年も昔にすでに戦っていた。

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書

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(2008/03/31(月) 01:26)

 シュメル版「中華思想」
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第六章・「真の王」サルゴン
    ・最古の国際社会・民族対立はあったか
    :185・186頁

 シュメル人はアッカド人とともにカラム(「国土」の意味)に

 住んで農業を営み、都市生活を謳歌した。

 カラムは豊饒な世界であったが、周辺地域はクルと呼ばれた荒地であって、

 農業はままならず、遊牧しながら天幕に住み、貧しかった。

 そのためにシュメル人はここに住む人々を蔑視していた。

 「中原」「中華」は物質的に恵まれ、文化的に優れた世界の中心だが、

 周辺を劣等民族の住む所、

 たとえば東方に住む日本人を

 [東夷」と見下す「中華思想」は東アジアの歴史ではよく語られる。

 似たような発想はシュメルにもあった。

 シュメル人、アッカド人は文化を持つ優れた民だが、

 翻って周辺に住む人々を文化を持たず、動物同然と蔑(さげす)んでいた。

 第一章で紹介した『エンメルカルとアラッタ市の領主』には、

 文字の起源のほかにもう一つ興味深い話が含まれている。

 昔々、エンリル神が支配していた時代には

 人々は一つの言葉を話していて、

 世の中は平和であった。

 だがエンキ神が彼らの言葉を変え、この世に争いを生ぜしめたというのである。

 その昔には蛇はいなかったし、さそりはいなかった、

 ハイエナはいなかったし、ライオンはいなかった、野犬、狼はいなかった、

 不安、恐れはなかった、人は敵を持たなかった。

 (今は)異なる言葉(を話す)国、スビルとハマジ、

 高貴なメを持っ大いなる国シュメル、

 優れた国ウリ(=アッカド)、豊かな草に安らぐ国マルトゥ、

 (これら)全世界で、調和していた人々は

 エンリル神に一つの言葉で語りかけた。

 「メ」とは、シュメル人が考えていた、世界秩序の根源となる律法で、

 知恵の神エンキ神が掌握していた。

 この引用箇所は「バベルの塔」説話の原型といわれる話である。

 『旧約聖書』「創世記」第一一章には、

 人々が天まで届く塔を建てようとしているのを神が見て、

 一つの言葉で話しているから不届きな所業に及んだとして、

 言葉をバラバラに乱して互いの意思疎通を図れないようにしたために

 建設は頓挫したという話がある。

 シュメルのこの話でも、

 本来、全世界の人々は一つの言葉で話していたことが語られていて、

 ここに当時の世界観が示されている。

 北方の山岳地方であるスビル(アッカド語ではスバルトゥ)は

 中華思想に見られる蔑視の表現に見立てれば「北狄(ほくてき)」になる。

 ハマジは東方のエラム地方にあったといわれ、

 「東夷(とうい)」に相当する。

 そして西方のマルトゥは「西戎(せいじゅう)」となる。

 シュメル版「中華思想」では「南蛮(なんばん)」に該当する異民族はなく、

 南方に文明国であるシュメルとアッカドが位置していた。

 シュメル語で書かれた文学作品のなかにはこれらの人々に対する

 辛練(しんらつ)な表現が見られる。

 「北狄」スビルは
 
  「天幕に暮らし、神々の場所を知らず、

   動物の如くつがい、神への奉納を知らない」。

 [西戎」マルトゥは
 
  「火を加えない食物を食べ、生きている間は家に住まず、死んだときには墓に葬られない」。

 「東夷」エラムは

  「いなごのように群れるが、生きている人のなかに加えられない」。

 さらに、アッカド王朝を窮地に陥れたグティ人については

 「人間として作られているが、その知恵は犬、

  その容貌は猿である」と罵っている。

 人間は自他の差を強調し、

 ことに他者を貶(おとし)めることで自らを高めるといったことをしがちであり、

 シュメル人もまた自分たちと生活習慣のちがう周辺諸民族を獣並みに貶め、

 自らを文明に浴した人間として高めていた。

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書

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(2008/03/31(月) 01:25)

 シュメル人とアッカド人
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第六章・「真の王」サルゴン
    ・最古の国際社会・民族対立はあったか
    :183・184頁

 バビロニアにおいては、

 シュメル人は南方、

 アッカド人は北方に住み分けていたようだが、

 両者は二分されていたのではなく、混在もしていた。

 シュメル人とアッカド人の間には民族対立はなかったのであろうか。

 この観点からの研究もかなりこれまでされてきたが、

 どうやら深刻な民族対立はなかったようだ。

 シュメルの都市国家はアッカド人サルゴン王に切りしたがえられたが、

 これも民族対立に起因するものではなかった。

 シュメル人とアッカド人はともに都市生活をし、神を崇拝し、

 文化を持つ民であって、共存していた。

 このことを証明する一つの例が、

 次に挙げるウル第三王朝の王たちの名前である。

 アッカド王朝滅亡後、前3000年紀末に成立した

 シュメル人のウル第三王朝はアッカド王朝で確立された

 中央集権制をさらに発展させた。

 五代の王、約100年の王朝であって、

 親子関係は明確にわかっている。

 シュメル人であることは間違いなく、

 初代、第二代の王はシュメル語の名前であり、

 第四代、第五代の工名はアッカド語の名前であるが、

 第三代のアマル・シンは、少し複雑な名前で

 アマル「仔牛」はシュメル語、

 シン神はアッカドの月神である。

 シュメルの月神ならばナンナ神になる。

  初 代 ウルナンム(「ナンム女神の戦士」の意味)

  第二代 シュルギ(「高貴な青年」の意味)ウルナンム王の子

  第三代 アマル・ンン(「シン神の仔牛」の意味)シュルギ王の子

  第四代 シユ・シン(「ンン神の人」の意味)アマル・シン王の兄弟

  第五代 イッビ・ンン(「シン神が名を呼ぶ人」の意味)シュ・シン王の子

 現在の日本では欧米崇拝が根強く、

 子供の名前にたとえば

 弾(だん)、健人(けんと)、麻里(まり)、エミリといった、

 欧米風の名前を付ける例がけっこう見られる。

 欧米が嫌いであったら、こうした名前は付けない。

 シュメル人もアッカド人を嫌っていたら、

 アッカド語の名前を名乗らなかったであろう。

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書


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(2008/03/31(月) 01:23)

 ナラム・シン王の戦勝碑
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第六章・「真の王」サルゴン
    ・最古の国際社会・サルゴンの功業
    :181・182頁

 1901−1902年にJ・ド・モルガン率いるフランス隊は

 エラムの首都であったイランのスサ市(現代名シュシュ)で発掘をおこなった。

 エラムの神像やペルシアの遺物ばかりでなく、

 前12世紀中頃にエラムの王たちが略奪して来た

 アッカド王朝第三代のマニシュトウシュ王(前2269−2155年頃)の像、

 バビロン第一王朝の『ハンムラビ「法典」』碑などとともに

 この「ナラム・シン王の戦勝碑」も発見されて、

 これらの貴重な遺物はルーヴル美術館に収蔵されている。

 「ナラム・シン王の戦勝碑」は

 高さ約2メートル、幅約1メートルの石碑で、

 赤色砂岩の一枚岩から制作されている。

 画面を数段に区切って王の功業を物語るシュメルの石碑とはちがって、

 ナラム・シン王の勝利の瞬間が碑一面に大きく描写されている。

 王は自らが先頭に立って蛮族を征伐する。

 王は強弓(こわゆみ)を使い、

 シュメルの密集戦団よりもはるかに行動的であった。

 画面右上方にはザグロス山脈、下方には森林地帯があり、

 森のなかを逃げ惑う敵を追って

 ナラム・シンの軍勢は急な山道を進軍して行く。

 最上段にひときわ大きい王の姿がある。

 神格化を物語る特大の角のある冑をかぶり、

 強弓と長矢、戦闘斧などで武装している。

 敵兵を踏みつける王の足はサンダルを履いている。

 山岳地方への遠征となれば履物が必要であり、

 このサンダルはメソポタミアにおける最占の履物の図像である。

 ナラム・シン王は外征を繰り返し、西方ではアナトリアまで達し、

 南東方面ではマガンからも朝貢団がやって来たという。

 エラムの首都スサを占領すると、

 山岳民族ルルブ族の征伐のためザグロス山脈へ向かうが、

 その激しい戦闘と勝利を「ナラム・シン王の戦勝碑」に刻んだ。

 ナラム・シンの頭上にアッカド語で刻んだ

 「ナラム・シン神、猛き者、……ルルブ族の首長サトニを平定……」は

 摩滅してしまい、前12世紀中頃にこの碑を略奪した

 エラムのシュトルク・ナフンテ王が得ラム語で刻んだ

 「アンシャン市とスサ市の王、エラムの支配者、

  私……ナラム・シン王の石碑を得て、

  エラムに持ち帰り、我が主インシュシナク神に奉献する」の方は

 読むことができる。

 ナラム・シン王がこの碑を見たら、なんと思うだろうか。

 ※ 写真:ナラム・シン王の戦勝碑
     砂岩、高さ2 メートル(ルーブル美術館蔵)

 ※図:(右)戦勝碑に刻まれたナラム・シン王

 ※写真:(上)ザグ口ス山脈の岩山

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書

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(2008/03/31(月) 01:21)

 神になった王
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第六章・「真の王」サルゴン
    ・最古の国際社会・サルゴンの功業
    :179・180頁

 アッカド王朝初代サルゴン王は統一の覇業を成し遂げたが、

 自らの権威を示すことについては「成り上がり」である自らの名前を

 シャル・キン「真の王」とするのが精一杯であったようだ。

 だが、孫で第四代のナラム・シン王になるとちがっていた。

 ナラム・シンは生まれながらの王族であって、

 祖父に優るとも劣らずに領土拡大を果たしたが、

 治世前半には反乱が起きた。

 キシュ、ウルク両市が首謀者で、シュメルのすべての都市が呼応した。

 ナラム・シンはこの反乱を鎮圧した後で、自らを神格化した。

 古代エジプトでは王は現人神(あらひとがみ)

 つまり神王(ゴッド・キング)であったが、

 メソポタミアの王は神官王(プリースト・キング)であり、

 王は神とはみなされなかった。

 だが、メソポタミアでも、例はきわめて少ないが王が神格化された。

 ナラム・シンも神格化された数少ない王である。

 ただし、神格化といってもェジプトの神王のように

 最高神と王とが合一されることはなく、

 人間社会の運命を大神に執り成す神、

 つまり個人神(第八章参照)のような立場の神に神格化された。

 文書や図像で神格化を表すさいには、

 人間ではなく、神であることを示す目印を付ける。

 この目印にはいくつかの方法がある。

 文書の上では神であることを示す限定詞を付けることであり、

 図像の面では角の付いた冠をかぶることなどである。

 ナラム・シンna-ra-am-en-zuとは

 「シン神の最愛の者」を意味し、

 月神シンen-zuに(エン−ズと綴ってシンと読んだ)の前に

 神であることを示す

 限定詞ディンギルdingirが見られる「上付きのd がdingir の略を示す)。

 ナラム・シンが神格化されると。Na-ra-am-en-zuと表記されて、

 神格化を示す限定詞が名前の先頭にもう一つ使用されていて、

 「ナラム・シン神」を表す。

 メソポタミアの王の神格化はナラム・シンが最初で、

 その後ウル第三王朝(前2112−2004年頃)の王たちにも見られる。

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書


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(2008/03/31(月) 01:19)

 エブラ市の文書庫
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第六章・「真の王」サルゴン
    ・最古の国際社会・サルゴンの功業
    :177・178頁

 1964年に始まったイ夕リア考古学調査団(P・マティェ団長)による、

 シリアのアレッポ市南西約65キロメートルの

 テル・マルディーク遺跡調査では、

 1974、1975年になって、

 「王宮G」の文書庫から約25000枚の粘上板が出土した。

 「王宮G」は火災によって破壊されていたが、

 火災のおかげで粘土板が焼かれ、

 保存の効く状態になって埋もれていたことが幸いし、

 ここが、アッカド王朝初代サルゴン王やその孫で

 第四代ナラム・シン王の王碑文に征服したと記録されていたエブラ市と特定された。

 ナラム・ンン王が周辺地域を征服したことを記す王碑文の一部を次に紹介しよう。

 人類の創造以来ずっといかなる王といえども誰でも

 アルマーヌム市とエブラ市を破壊した者はいなかったが、

 ネルガル神は(彼の)武器によって強きナラム・ンン神のために道を開き、

 彼にアルマーヌム市とエブラ市を与えた。

 さらにネルガル神はナラム・シン神にアマヌス(山脈)、

 (つまり)杉の山そして上の海(=地中海)を与えた。

 ナラム・シン神の王権を大きくするダガン神の武器によって、

 強きナラム・シン神はアルマーヌム市とエブラ市を征服した。

 (略)

 アルマーヌムは一説によれば、アレッ
 アッカドの攻撃で焼け落ちた文書庫は、三方の壁に各三段の書棚があったようで、

 粘土板をどのように棚に配架したかを示唆していた。

 粘土板に記録されていた内容は

 行政経済文書つまり各種の会計簿が大部分であって、

 王碑文や文学文書は出土していない。

 行政経済文書にはシュメル語の名詞が多数使われていたので、

 エブラの書記たちがシュメルの書記術を学んでいたことがわかった。

 エブラでは、アッカド語と同様にセム語に属し、

 同じくらい古いエブラ語が使われている。

 エブラ文書の出現は、

 メソポタミア南部でシュメル人が都市国家を分立させていた頃に、

 北部にはエブラ市、マリ市、キシュ市そしてアッカド市のような

 セム語文化圏があったことを明らかにした。

 エブラはその繁栄期にアッカドの王たちと敵対し、またマリとも戦っている。

 さらに、後代にはエジプトの第一八王朝

 トトメス三世(前1479−1425年)が

 カルナック神殿の壁に刻んだ征服地名表にエブラの名前は含まれている。

 トトメス三世は「古代エジプトのナポレオン」と

 ニックネームがつけられるほど、

 征服活動を盛んにおこなったが、

 彼の先駆けといえる王たちがアッカド王朝にはいた。

 ※写真:王宮Gここから文書が出土

 ※写真:(上)エブラの文書庫
        アッカドの攻撃で焼け落ち、そのまま埋もれていた粘十板
     (下)文書庫想像復元図ポ市ともいわれている。

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書



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(2008/03/31(月) 01:18)

 共通語はアッカド語
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第六章・「真の王」サルゴン
    ・最古の国際社会・サルゴンの功業
    :176頁

 アッカド王朝がメソポタミアを支配するに及んで、

 アッカド語がシュメル語に取って代わる。

 アッカド王朝が滅亡した後も、前2000年紀になるとこの傾向は本格化して、

 シュメル語はラテン語と同じように教養としては学ばれても、

 日常語としては死語になる。

 アッカド人は自らの言語アッカド語を表記するために、

 シュメル人が発明した楔形文字を借用した。

 中国語を表記するために発明された漢字を、

 日本語を表記するために日本人が借用したのと同様である。

 日本人は仮名文字を作ったが、

 アッカド人はこうした工夫はせずに楔形文字を表音文字として使用した。

 前14世紀前半の「アマルナ時代」になると、

 アッカド語は古代オリエント世界の

 共通語として使用されていたことはすでに第一章で紹介した。

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書

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(2008/03/31(月) 01:16)

 5400人の常備軍
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第六章・「真の王」サルゴン
    ・最古の国際社会・サルゴンの功業
    :175頁

 サルゴン王はなぜシュメル地方の諸都市を破ることができたのだろうか。

 強さの秘密は常備軍を持っていたことであった。

 次に引用する王碑文にもそのことが書かれている。

 この王碑文もシュメル語とアッカド語の二カ国語で書かれ、

 後世の写本である。

 キシュ市の王、サルゴンは34回の戦闘で勝利を得た。

 彼は諸都市の城壁を海の岸まで破壊した。

 彼はアッカド市の岸壁にメルッハの船、

 マガンの船そしてティルムンの船を停泊させた。

 王、サルゴンはトゥトゥリ市でダガン神に礼拝した。

 ダガン神はサルゴンに杉の森(=アマヌス山脈)と

 銀の山(=タウロス山脈)までの上の17国、

 つまりマリ市、イアルムティ市そしてエブラ市を与えた。

 5400人が、エンリル神が敵対者を与えない王、

 サルゴンの前で毎日食事をした。

 (略)

 サルゴン王が毎日の食事を提供した

 5400人の兵士がいたことが書かれていて、

 王に忠誠を誓う戦士集団を育成していたことがわかる。

 メルッハはインダス河流域地方(エチオピア説もある)、

 マガンはアラビア半島のオマーン、

 ティルムン(シュメル語ではディルムン)は

 ペルシア湾のバハレーン

 およびファイラカ島周辺地域にあたるといわれている。

 三カ所ともに銅の交易拠点であった。

 また、マガンからは閃緑岩、

 ディルムンからは玉葱が輸入されていた。

 サルゴン王は常備軍の力によって、

 ラガシュ市やウル市に替わってペルシア湾を

 中心とした交易を掌握し、富を得た。

 ※ 写真:サルゴンの王碑文に「銀の山」と書かれている
     タウロス山脈のせまい峠道「キリキアの門」
     アレクサンドロス大上もここを通り、イッソスの戦いにのぞんだ

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書

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(2008/03/31(月) 01:15)

 上の海から下の海まで
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第六章・「真の王」サルゴン
    ・最古の国際社会・サルゴンの功業
    :174頁

 サルゴン王の功業を記録した王碑文は、

 本来はニップル市のエンリル神を祀った

 エクル神殿中庭に立てられた碑であった。

 本物は失われたが、古バビロニア時代の学校(第七章参照)で

 書記を養成するために使われていた写本が現在残っている。

 シュメル語とアッカド語の二カ国語で書かれている。

 シュメル統一を目指し、

 ウンマ市の王にあきたりずウルク市の王位を得ていた

 ルガルザゲシ王をサルゴン王は急襲して捕虜とし、

 彼に代わってシュメル統一のの覇業を成し遂げたことを

 次のように書いている。

  サルゴンはウルク市を征服し、その城壁を破壊した。

  彼は戦闘でウルク市に勝利した。

  ウルク市の王ルガルザゲシを戦闘で捕らえ、

  軛にかけエンリル神の門まで連行した。

  さらにウル市、ラガシュ市そしてウンマ市に勝利し、

  その城壁を破壊したと書き、

 次のように続ける。

  国土の王サルゴンにエンリル神は敵対者を与えない。

  エンリル神はサルゴンに上の海(=地中海)から

  下の海(=ペルシア湾)まで与えた。

  下の海から(アッカドまで)アッカド市の市民に

  (シュメル諸都市の)エンシ権(=王権)を選び与えた。

  マリ市とエラムは国土の王サルゴンの足下に服した。

  (略)

  「上の海から下の海まで」、

 つまり地中海からペルシア湾までの広大な帝国を支配したと

 サルゴン王は豪語している。

小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書

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(2008/03/31(月) 01:09)

 「真の王」サルゴン
 出典:小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
    第六章・「真の王」サルゴン
    ・最古の国際社会・サルゴンの功業
    :173頁

 サルゴンという名前は『旧約聖書』に出てくるへブライ語名であって、

 アッカド語ではシャル・キンという。

 この名前は「真の王」を意味しているが、

 生まれながらの王族であったならば

 こうした名前を名乗らないはずである。

 出世してから付けられた名前であり、

 端なくも成り上がりであることを示してしまったといえる。

 『サルゴン王伝説』に語られているところでは、

 サルゴン王の母は子供を産んではいけない女神官であったようだ。

 母はひそかにサルゴンを産み、

 寵(かご)に入れてユーフラテス河に流したという。

 祝福されない赤子の運命は河の神の「神明裁判」に委ねられ、

 その結果は「吉」と出、赤子の運命は好転した。

 アッキという名前の庭師に拾われ、

 その後キシュ市のウルザババ王の酒杯官となり、

 やがてサルゴンは王権を簒奪した。

 ウルザババはそうなることを見越していたようで、

 サルゴンを暗殺しようと企てたが失敗したことは第三章ですでに紹介した。

 河に流されたサルゴンの話は、

 アケメネス朝ペルシアの初代王キュロス二世(前559−530年)、

 イスラエル人の「出エジプト」を指導したという

 伝説の人モーセ、

 そして[ローマ建国伝説」の双生児ロムルスとレムスなどにまつわる

 「捨て子伝説」の最古の例である。

 ※ 図:サルゴン王(左下)
    サルゴン王の戦勝碑断片
    (ルーヴル美術館蔵)

 小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書



   

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(2008/03/31(月) 01:08)