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Author:mat29805213kane
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| 大和はヤマトでなく「ウワ」への当て字 |
出典:加治木義博『言語復原史学会』大学院講義録39 :8頁
しかし奈良にはウワイはないがウワはある。
それへの当て字が「ウワ=大和」だ。
それは大坂市の上(ウエ)の宮が、
本来は聖徳太子の宮跡地名だから
「ウワのミヤ」と発音すべきものであることを考えると、
大和をヤマトと読むようになったのは、
倭国(ウワイト)が日本(ニップヌ)に変わった7世紀以後で、
3世紀の発音ではない。
ウワイトへの当て字は天武天皇の名乗り
「大海人(ウハイト)=ウワイト」で、
ヤマト=山人とは相容れない人たちの名である。
ヤマトは邪馬人なのだから、
邪馬(ジャマ)がヤマと発音されるように変わった
唐代(7世紀)以後でないと存在しない名なのだ。
しかし、その「大和」という当て字は、
古く、倭人(ウワイト)が台湾に居た時代に
大和人(ウワヒト)と書かれたものである。
その大和が、後世、大和=タイワの国=タイワンと読み方が変わって、
それの当て字が臺湾と書かれるようになったものが
今、常用されているのである。
これで、倭人が台湾経由で来たことも立証されたし、
台湾が小琉球と呼ばれ沖縄が大琉球と呼ばれたのは、
首都が台湾から沖縄に移ったためだ。
と明確に理解でき、大きな謎がもう一つ解決した。
この「大和(ウワ)」が国称に使われたのは
元正女帝の小都(天理付近)名以後である。
それもまた聖徳太子時代の「ウワ」への復帰だった。
「ヤマト」とは元々、
ウハヒト=上人=貴族と対比した
「下層民=山人・隼人」という
意味の蔑称として使われたものなのである。
『参考』
歴史徒然:日本の誕生・日本語のルーツ・ウバイド・ウワイト・遷都
小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
オックスフォード大学東洋学科シュメル文学
テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術 |
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(2008/04/04(金) 08:55) |
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| 奈良にはウワイトもウワイもない |
出典:加治木義博『言語復原史学会』大学院講義録39 :7頁
この事実には、まだ他にも動かぬ証拠がある。
それは『魏書』が書く、
これまでワジンと読んできた「倭人」という名は、
陳寿らの中国人が付けた
「倭という国に住む人間」という意味のタイトルだとすれば、
同じ『東夷』に分類して編集、
併記されている他の国々の章の見出しにも、
同じように全てに「○○人」と「人」が付いていなければならない。
だがそれらをよく見ると夫余、高句麗、東沃沮、悒僂、濊(ワイ)、韓と、
どれ一つ「人」は付いていない。
これで「倭人」の二字は、
ウワイトという名詞の発音を漢字二字で写した当て字であって、
「倭という国に住む人間」という意味ではないことが確認できた。
そしてそれは魏使や陳寿が考えて作って付けた名詞ではなく、
他の国名と同じくそれ以前から使われていた
「国名」だと確認できたのだから、
この問題には、もう疑念や反論の余地は残っていない。 『ウワイト』
すると他の国々は、
それぞれ夫余、高句麗、濊(ワイ)、韓と地名が残っていて、
それがどこにあったかが判る。
それなら「ウワイト」という国名は何処に残っているか?
それは鹿児島県姶良郡にある国分市に
『上井』という地名として残り、
鹿児島人独特の姓としても残っているが、
奈良県にはウワイトもウワイという地名も土着の姓もない。
『参考』
歴史徒然:日本の誕生・日本語のルーツ・ウバイド・ウワイト・遷都
小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
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(2008/04/04(金) 08:50) |
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| 金印の「委奴」もウワイド |
出典:加治木義博『言語復原史学会』大学院講義録39 :6頁
だから志賀の島の『漢委奴国王』の金印の「委奴」も
在来の「カンのワのナの国王」ではないことは決定的である。
上古音では<委>は<倭>と同じ発音だからウワイ、
<奴>は奴隷のドだから、
やはり「ウワイド」と呼ばれていた発音への当て字であることは動かない。
しかし<奴>の漢魏音は「ノ」だから、
沖縄と南中国で「ヌ」、
唐代の中世音で「ナ」に変化する。
「ド」は「ノ」の鼻濁音なのである。
これを見やすいように配列してみると、
委 奴 地名・姓名などの遺物
ウワイ ド 上井殿(うわいドン)=ワッドン(唐以後の大隅発音)
イ ド 井戸 (井戸はウバイド発祥で我が国だけがそれをイドと呼ぶ)
イ ノ 伊野 井野 猪野 伊能 稲生
イ ヌ 犬 (南九州語 イン)
イ ン 殷 婬 印度(印奴 因藤 犬童)
イ ナ 稲 伊那 伊奈 猪名 印南 稲美 伊彼 イナンナ女神
殷の自称はウバイドで委奴。
委の字をイと読む人々がつけた呼び名がイン。
ウバイド人は、
それにも「大・豊・栄」といった意味をもつ
好い文字「殷」を当て字したのだと解る。
『参考』
歴史徒然:日本の誕生・日本語のルーツ・ウバイド・ウワイト・遷都
小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
オックスフォード大学東洋学科シュメル文学
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(2008/04/04(金) 00:06) |
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| 『倭人(ウワイト)』は倭人自身がつけた当て字 |
出典:加治木義博『言語復原史学会』大学院講義録39 :5頁
『倭人(ウワイト)』
これは在来「倭(ワ)の人々」という意味で、
中国人がつけた名称だと思い込み、
その誤りに気付かずにいた。
だがそれは、民族名ウバイドが訛った発音「ウワイト」に、
倭人自身が当て字したものである。
それは中国人なら「人」の字を「ト」とは読まないのに、
それを「ト・ド」に当て字している事実が、
当て字者が中国人ではなく倭人自身であることの、
何よりの証拠だからである。
また後漢の王充の『論衡』巻八「儒増篇」に、
周に「倭人 鬯艸(チョウソウ)を貢す」
という記事が収録されている。
最初に当て字したのは周代より前の倭人で、
以前にお話しした通り
中国文字は「殷人=倭人」が作り始めたのだから、
倭人が自分で当て字したことは疑いないし、
後漢の班固(32〜92)の『前漢書』巻28下 地理志「燕地」にも
「楽浪海中倭人(ウワイト)有り」と記録されている。
すべて3世紀の当て字ではない。
ところがこれまでは、「倭人」という人種名は、
魏の役人か『魏書』の編集者・陳寿らの中国人が付けたものだろう、
といういい加減な想像でストップしていた。
だが、それは周代以前に
倭人(ウワイト)自身が当て字したものだったことは明確で、
これは常識化する必要がある。
ご覧のように『魏書倭人(ウワイト)章』は、
本来、内容を明示した冒頭のタイトルである『倭人』さえ、
まるで見当違いの読み方と解釈が一般化したままで停滞していたのである。
『参考』
歴史徒然:日本の誕生・日本語のルーツ・ウバイド・ウワイト・遷都
小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
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(2008/04/03(木) 23:57) |
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| 世界でも稀な至高・最大の記録 |
出典:加治木義博『言語復原史学会』大学院講義録39 :4頁
それは、世界最古のスメラギの歴史を生んだ、
スメルの地に生まれたウバイド人が、
遷都し続けて数千年後の三世紀に、
九州で健在だったことが、
はっきり記録されている世界でも稀な、至高・最大の貴重な文献
『魏書倭人(ウワイト)章』が、
その所在地についても多数の根拠を明記して、
幾重にも重ねて明瞭に詳しく書いているにも関わらず、
今頃まだ「邪馬臺国は九州か大和か」などと言っていることが、
我が国の建国史復原担当者として黙視できないばかりか、
言語復原史学会の啓蒙宣伝を疎そかにしたと、
神に咎められていると感じたからでもある。
『魏書倭人(ウワイト)章』には、
邪馬壹国の所在がはっきり解るように書かれた記事が大量にある。
それを読めば、奈良などとは想像すらできない事実を、
いま一度、よく判るように整理してお話し申し上げ、
3世紀の首都の所在地さえ判らない哀れな史学界だなどと、
国民ばかりか世界の人々にも誤解されているらしい現状を、
少しも早く払拭したいと考えるからである。
これは本学会の諸先生方には今更不要かと拝察申し上げるが、
再確認のお心算で御高覧賜り、
この機会を活用して、
一層の御啓蒙を戴ければと、
心から御願い申し上げてのことである。
これだけの根拠が国民の皆様に届けば、
必ず諸先生の長年にわたるご研鑽が、
いかに貴重なものであったかを、
ご実感戴けると強く信じているからである。
『参考』
歴史徒然:日本の誕生・日本語のルーツ・ウバイド・ウワイト・遷都
小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
オックスフォード大学東洋学科シュメル文学
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(2008/04/03(木) 23:37) |
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| その時、歴史は動いた |
出典:加治木義博『言語復原史学会』大学院講義録39 :3頁
ウバイドが時と共に自然拡大し、
首都もまた気候や農耕漁業の適地を求めて移動し続けて、
日本列島に到達したのち、また様々に分散した人々が、
八方へ移動して行った人類史の根底をなす史実が判り、
言語復原史学究極の段階に差し掛かって、
ウワイトの名の最後を飾った倭国問題の徹底的結論を纏めようとする矢先、
恰かもそれを見通していたかのように
NHKの『その時、歴史は動いた』で、
「邪馬臺国は九州か大和か」という番組が
あったということで沢山お電話やお手紙を戴いた。
私(加治木義博)はその番組を見ていないが、私たちはすでに、
『倭人はウバイドへの当て字である』ことを熟知している。
その名を記録している『魏書倭人(ウワイト)章』は、
我が国8000年史中でも、
初めて「倭人=ウワイト」と明記している
稀にみる貴重な記録文献である。
そんなものが現存しているのに、
今頃になっても肝心の首都の所在すら、
どこにあったか不明だという番組を、
半国営の国策情報源で、
国威宣伝機関でもあるNHKが全国番組で放送し、
その国名をヤマタイコクと呼ぶばかりか、
奈良にあったと思う「学者」が登場するといった、
我が国の史学と国民常識の低さに改めて気付かされた。
こんな番組が諸先生のご関心に火をつけたことは、
単なる偶然とは思えないので、
『魏書倭人(ウワイト)章』の位置記事を集約整理し、
大和説の欠陥を再確認して戴くことにした。
『参考』
歴史徒然:日本の誕生・日本語のルーツ・ウバイド・ウワイト・遷都
小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
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(2008/04/03(木) 11:16) |
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